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伏見大名屋敷跡の配置は萌えます。
ひとつの大名が屋敷を複数もっていたり(ちなみに三成は城内含めて3つの屋敷を持っています)、年代によって変遷はあるのですが、三成、立花、家康、真田(信之)、小西、宇喜多が近所というのが美味しい。
川沿いの屋敷でも、並びが上杉、石田、島津、立花、長宗我部というのがまた美味しい。
町名に「正宗」とか「長岡越中」とか「本多上野」とかついてるのがたまらない。
今は大名屋敷の面影はまったくないのですが、このあたりは誰の屋敷跡だったのだろう、と思いを馳せながら歩くのが楽しいわけです。
伏見城攻略は思わぬ伏兵の邪魔が入りましたが、とても楽しかったです。
RさんSさん、ご一緒してくださって本当にありがとうございます。拙いガイドで申し訳ありません。
機会があればぜひ再挑戦を。レポはそのうちに。
ところで、サイト始めた頃に上げてた伏見ご近所ネタを下に置いておきます。
そこはかとないみつぎん色が漂っています。そういうつもりはなかったのですが。
石田屋敷をみんなの集会場にしたかったのですよ。島津の猫も昼寝に来るぐらいの。
ひとつの大名が屋敷を複数もっていたり(ちなみに三成は城内含めて3つの屋敷を持っています)、年代によって変遷はあるのですが、三成、立花、家康、真田(信之)、小西、宇喜多が近所というのが美味しい。
川沿いの屋敷でも、並びが上杉、石田、島津、立花、長宗我部というのがまた美味しい。
町名に「正宗」とか「長岡越中」とか「本多上野」とかついてるのがたまらない。
今は大名屋敷の面影はまったくないのですが、このあたりは誰の屋敷跡だったのだろう、と思いを馳せながら歩くのが楽しいわけです。
伏見城攻略は思わぬ伏兵の邪魔が入りましたが、とても楽しかったです。
RさんSさん、ご一緒してくださって本当にありがとうございます。拙いガイドで申し訳ありません。
機会があればぜひ再挑戦を。レポはそのうちに。
ところで、サイト始めた頃に上げてた伏見ご近所ネタを下に置いておきます。
そこはかとないみつぎん色が漂っています。そういうつもりはなかったのですが。
石田屋敷をみんなの集会場にしたかったのですよ。島津の猫も昼寝に来るぐらいの。
伏見の立花屋敷は、石田上屋敷の隣に位置している。と言うより、半ば石田屋敷の敷地内にあると言った方がより正確だろう。
立花家が豊臣秀吉によって大名として独立したあと、伏見城下に屋敷を構えることになったのだが、ぶっちゃけた話、屋敷を建てるほど広い土地が城の側にはなかった。ならば少し城からは遠くなるが、上杉や島津のように川沿いの土地に建てれば良い話ではあるのだが、立花の現当主が女性であること、さらにその当主が舟が大の苦手ときたもんだから(乗ると船酔いでひどいことになる)、秀吉が三成に上屋敷の土地の一部を立花のために与えるよう命じたことになっている。
なっているというのは、土地がないことを理由に立花の女当主を伏見城の一角(治部少輔郭を立花郭にするつもりだったらしい)に住まわせるという秀吉の心づもりに気づいたねねが、秀吉をぶちのめしてやめさせたというのが真相であるからだ。付け加えるなら、石田上屋敷の土地を割くことは、持ち主である三成に無断で勝手に何の前触れもなくねねの一存で決めたことだったりする。
「今日から世話になる」と、いきなり配下と荷駄を引き連れて石田屋敷にやってきた立花の女当主に、さすがに奇天烈な出来事(何しろ、石田屋敷を訪れる面子が面子だ)に慣れきった石田屋敷の面々もしばし絶句した。
口の悪い家老が「立花様を嫁に貰うことになったので?」とうっかり尋ねてしまい、主と女当主両方からメタクソにのされる羽目になったり、どこぞの博奕打ちの甥っ子がベソかきながら殴り込んできたり、親友と悪友どもからはどこで聞きつけたか早々と「お祝い(と書いて嫌がらせと読む)」の品が届けられたり、腸抉の鏃の矢(これは効果があまりに残酷なため、親の仇討ちなどの際にのみ使われるものだ)が大量に屋敷の中に射込まれたりなど、そのときの騒動は推して知るべし。
口の悪い家老が「立花様を嫁に貰うことになったので?」とうっかり尋ねてしまい、主と女当主両方からメタクソにのされる羽目になったり、どこぞの博奕打ちの甥っ子がベソかきながら殴り込んできたり、親友と悪友どもからはどこで聞きつけたか早々と「お祝い(と書いて嫌がらせと読む)」の品が届けられたり、腸抉の鏃の矢(これは効果があまりに残酷なため、親の仇討ちなどの際にのみ使われるものだ)が大量に屋敷の中に射込まれたりなど、そのときの騒動は推して知るべし。
結局のところ、緒どころか堪忍袋すら木っ端微塵にはじけ飛んだ三成が秀吉のところに殴り込んで(としか言いようがないと、そのときの様子を知る人間は言う)、改めて立花家のために石田屋敷の土地を割くことが正式に決まったのである。
そんなわけで、立花屋敷は石田屋敷の土地に食い込むような形で建っている。
そのことについて、石田三成はとやかく言うつもりはないのではあるが(実は言いたいことはたくさんあったのだが、もはや何をどう言っても絶対にどーにもならないので諦めた)。
「帰ったのか、三成。暑いのに苦労なことだな。……ああ助六郎、茶の代わりをくれ」
「……何で貴様がここにいるのだ」
どういうわけか石田屋敷にしょっちゅう入り浸るようになった立花誾千代には、少々困ってはいるらしい。
どういうわけか石田屋敷にしょっちゅう入り浸るようになった立花誾千代には、少々困ってはいるらしい。
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