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04.06
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また10日も放置してしまって申し訳ありません。
せめて日記ぐらいは……と思うのですがなかなか上手くいきません。
毎日更新なさってる人もいらっしゃるだろうに、何この体たらくってば。

サイトを作った当初はまさかここまで今年度が忙しくなるとは思っていなかったので、最近どうしようか考えることが多いです。
いっそブログだけにしてしまおうかな……でもせっかく作ったのに惜しいな……を揺れ動いています。
基本的に2000字程度の短文が一番書きやすいのですが、それだとサイトに上げるには短いし小ネタにするには長いしで、どっちに上げるかで散々迷います。
うーん。暇を見てちまちま改装していくしかないかなぁ。

WEB拍手、たくさんありがとうございます!!!
本当に心の糧です。


以下小ネタです。
ちょっと抽象的なお話。こういうのを上手に書けるようになりたいです。





石田三成は、島左近にとって唯一である。

三成の言葉には嘘がない。一欠片の衒気すらない。真っ直ぐに左近の核心まで、踏み込んでこようとする。

それが左近には衝撃だった。謀略をめぐらせることを生業としてきた左近、目の前の人間を疑うのは癖のようなもの。
言葉の影に何を隠しているか、腹の底はどこにあるのか、すべてを疑ってかかる。
信用できると判断した人間であっても、決して信頼は与えない。
自分がそうであるように、どれほど真面目くさった言葉を重ねても腹の底では舌を出している、人間とはそういう手合いだと固く信じている。

けれど、三成はそうではない。

左近の前に、彼の本心をすっかり剥き出しにしている。

いや、左近だけではない。彼の前に立つあらゆる人間に、彼はおのれの本心を晒してしまっているのだ。


そのことに気付いたとき、左近は少しばかり慄然とした。

そのような振る舞いが出来る人間を、左近はこれまででただのひとりも知らない。

どんな人間であっても、本心を剥き出しにすることなどできない。生のままの心を晒すなど、あり得ない。

人の心には、性質というものがある。持つ人なりのあり様というものがある。

それは重さや熱さであったり、匂いや音のようなものであったりもする。震えや明滅であるかもしれない。

人の心は一様ではなく、そしてそれを受け取る人間の側でも、人の心の受け取り方は一様ではない。

ある人間の心が、ある人間にとってはこの上もなくうつくしいものであるかもしれぬ。

けれど、別の人間にとっては、怖気を震うほどに醜怪なものであるかもしれぬ。

心の感応は一瞬で、それだけに深く抜き差しがたい。感応がもたらしたものが、その後の一切を決めてしまうこともある。

そして、剥き出しにするには、人の心というものはあまりに柔らかすぎる。

迂闊に触れ合おうものなら、傷ついたり傷つけたり、ひどいときには互いが砕けてしまうこともある。

だから、人は心を鎧うのだ。人に触れさせてはならぬ、見せてもならぬものとして。

その鎧が膚となるほどに――そう。人がみずからの心と呼ぶものは、本人すら剥き出しに晒していると思っていても、膚と化した鎧に覆われているものなのだ。

触れたものを傷つける棘や、その棘に耐えるだけの堅さ(あるいは柔軟さであるかもしれないが)があると何となく承知しているからこそ、ようやく人は安んじて互いの心というものに触れあうことが出来る。

けれど、三成が左近に差し出したものは、生のままの己の本心。

鎧に覆われていない、剥き出しの、こころ。


………反射的にはねつけなかったことを、今でも左近は不思議に思う。

けれど、初めて人の剥き出しの心というものに接した左近は、恐懼した。

そのようなものの触れ方など、知らぬ。迂闊に触れれば、それは容易く傷ついて壊れてしまうほどに儚いものに見えた。

けれど、手を出さずにいても、地に落ちればそれは砕けてしまいそうで。

何とかしなければ、ならないように思えて。

 

真摯なものを扱うには、おのれもまた真摯でなければならぬ。人を寄せ付けぬ棘で鎧うた心から、棘を抜かねばならぬ。

そうでなければ、真摯なものは手のひらの上でぱちんと弾けて壊れてしまう。

けれども、自ら棘を引き抜くのは容易ではない。棘と同化した膚が裂ける激痛は、それこそ気が狂うほど。

そして恐れがある。心を他者の前に晒すことの、根源的な恐怖。

その両者に耐えうる人間が、どれほどいるだろうか。

その両者を左近に耐えさせたのは、どのような働きであったろうか。

 

おそるおそる触れた左近が知ったのは、えも言われぬ安堵感であった。

胸の底がほわりと温くなるような、そんな感情を言い表す言葉を左近は知らぬ。

乾いた土が水を吸い込むように、すっと肌に馴染んだ瞬間の、喩えようもない身体の戦き。

それは初めて無条件に信じても良いものがあると知った、驚きであったかも知れぬ。

おのれに本心を余さず委ねてくれる人間がいるという、魂の震えるような喜びであったかも知れぬ。

あるいは、そのどちらでもあるやもしれぬし、まったく違ったものであるかも知れぬ。

ただ、ひとつ言えることは、これまでの人生で、そのようなものはひとつもなかったということ――そしてこれからの人生でも、ふたつとないであろうこと。

石田三成という人間が、島左近という人間に与えた衝撃のほどは、それほど鮮やかで激しいものであった。

 

そして一度安堵されることを知った魂は、もはやそれ無しに在ることなどできない。

左近が三成を支えているのではない。三成こそが左近の魂を生かしめている。

策略の中で生きてきた人間の、初めて得ることが出来た、ただ信じるということ。

さきわいと呼ぶには、それは、あまりにも――――

 

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